2007年5月26日土曜日

たんぽぽの群生地(石のカラト古墳)

これだけ一面にたんぽぽが咲き乱れているのも見るのは初めてかもしれない。
ここは奈良市神功町1丁目緑地である。何故ここを訪れたかはコンクリートブロックの御祭壇で、忍熊王子と籠坂王子の仇敵である神功皇后の名前を冠した地名に興味を持ったからである。地図をみると最も興味深い所がここであった。


緑地ができたのは、1978年(昭和53年)に住宅開発中に石のカラト古墳が見つかったからである。前方後円墳でなく上段が円形(直径約9.2メートル)下段が方形(一辺約13.8メートル)の上円下方墳とのこと。誰のお墓かはわからないが奈良時代初めの貴族の墓である。なんでカラトなのかというと石室が唐柵に似ているからだというが、唐柵が何であるかは、Google検索しただけではわからなかった。


上の写真は古墳の下方を西南の方向から撮影したのだが、上円下方になっているのがおわかり頂けるだろうか。実はこの古墳は奈良市と京都府木津川市の境界上に存在するので北側は京都府木津川市兜台2丁目になっており、木津川市側は石のカラト古墳緑地と命名されている。下方の北西側から撮影したのが下の写真だが草ぼうぼうである。


古墳が発見されたからといって県境が変更されるわけもなく、県境に沿って奈良市と木津川市が別々に緑地の管理をしているため、整備した時期の差がそのまま草の成長の差になっているのだろうか。草ぼうぼうでも緑地なのだからかまわないとでもいうのだろうか。国の史跡名勝天然記念物に指定されているのだからもう少し整備して欲しい。


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2007年5月19日土曜日

コンクリートブロックの御祭壇(忍熊王子と籠坂王子の旧蹟地)

何とも寂しい御祭壇である。もう少し何とかならないのだろうか。


ここは忍熊王子と籠坂王子の旧蹟地である。
鳥居と石碑さらには左に立てられている旧蹟地を説明している立札も立派なのだが。


ビニールをかぶせてあるので、光がどうしても反射してうまく撮れなかった。


説明によると押熊町の由来は忍熊王子がかつてこの地を支配していたことによる。カゴ池とカゴ坂は籠坂王子にちなんで名付けられたのだそうだ。カゴ池は地図に載っているのでわかるのだが、カゴ坂はどこにあるのだろう。ちなみにカゴ池の地図の中央の右の名前のない神社が忍熊王子と籠坂王子の旧蹟地になる。

地図を見て頂くとわかるが、異母兄弟の応神天皇をお祀りしている押熊八幡神社の敷地内に旧蹟地があるように見える。またならやま大通りを渡ってしばらく東に行った所(押熊交差点の北東部)の地名が、二人の王子の仇敵である神功皇后由来の地名となっているのも何とも因縁めいている。


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2007年5月12日土曜日

押熊八幡神社


社殿の向こうに鳥居が見える。参道を入る前にももちろん鳥居はあった。


この社殿はおもしろい造りである。お参りするのに通るのだが、こんな社殿を通ってお参りする神社はめずらしい。ちなみに左の机の上で参拝の記帳ができる。


二つ目の鳥居を抜けていよいよ本社殿であると思ったら違っていた。


本社殿はさらに大きな社殿で覆われているのであった。
ここは押熊八幡神社である。近辺には旧家が多く古くから栄えていたのでろう。素晴らしいお社である。

しかし全国の八幡神社は全て応神天皇をお祀りしているとは知らなかったし、応神天皇が神功皇后の子供であることも知らなかった。応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子供であるが異母兄に忍熊皇子と籠坂皇子がおり、後継者争いがあったようだ。
近くに二人の皇子の旧蹟地があり、質素ではあるが塚が祀られている。

押熊町は忍熊皇子ゆかりの地ということのようだ。御岳教といい、歴史どころか神代の御代の痕跡を垣間見ることができるなんて、さすがやまとまほろばである。


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2007年5月5日土曜日

コックピット(北登美ヶ丘4号街区公園)


子供の頃の夢は何といってもパイロットである。
操縦桿ではなくハンドルなのが残念である。

しかし、実にすばらしい公園の遊具ではないだろうか。
ここは北登美ヶ丘4号街区公園で、割と最近できた街である。


よく見ると飛行機の一部がすべり台となっている。
奈良市公園のすべり台は実にユニークだ。


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